昭和44年9月5日 夜
今朝から、朝の御祈念に、お気付けを頂くということを言う。実は、ああ、お気付けを頂くと、思うたリ言うたりしておる間は、まだ心がほんとに神様に向こうていない時だと。それは、お気付けとして頂くんではなくて、神様の、お試しとして頂くべきだと。神様のお試しだとして頂く時には、ま、姿勢が違う。それを、どう受けることが御神意か、どう受けることがおかげになることかと。そこでお試しと、いわゆる試験、登案用紙を出されたようなものですから、それに向かって、それに、そのう、それに答えていくようなおかげが頂けるんですけれども、お気付けというのは、そういう心が向かっていない、神様に向かっていない。ですから、おいおいお前は神様忘れとりゃせんか、て言うて頂くのがお気付けだ、とこう言う。
ところがその、お気付けを頂きよっても、お気付けをお気付けとも頂けな、。という時には、もういよいよ信心が、こう、神様を忘れてはおりませんと言いながらも、神様から遠のいておる時だという意味の御理解を頂きましたですね。
今、御祈念ちょっと前に、福島の、北さんが参ってきました。恵美子さんが。ほいで、そのお届けを聞かせて頂いてから、わたくしは思ったんですけれども。ううん、とにかく具合が悪いから医者に行った。ところが、ガンになる一歩手前だと。だから今の内に手術したらいいと、こう言われる。そこで、その、それでも先生、手術はしたくありませんから、手術せんでおかげ頂きますように、と言うから、あたしは、少しやかまし言うて、怒りました。ね。
そういうようなことがあるもんか、て。病気、病院に行った。それはしかも、ガンの一歩手前とまで言われた。だから、手術をすれば、今の内に手術をすればおかげが頂けれると、良うなると言よんなさるのじゃから、神様にお願いをして、そうするのがほんなことじゃないかとあたくし。ね。ねえ。ただ手術をしたくないから、神様にお縋りをするなんて、そういうような馬鹿な話があるもんか。ね。
また、一つの考え方というのがね、たとえ、医者からそう言われたけれども、これはどうでも、神様のおかげでおかげを受けなければならんと、と言うのならね、これはまた別だと。それはあたしまた別なお届、お取次ぎもさせてもらおうけれども、しかし、それはです、ひどうなろうが、それでたとえばガンになろうが、死のうが、ままよと言う気持ちでなからにゃいかんとよ、とあたくしが。手術ばしようごとなかけん、はっ、ね、あのう、お願いして下さいと。
いつまでたちゃ信心が分かるとか。ほんとに今日は、ようっと、帰ってその二つのことを考えなさい。そして、その腹が、どっちかに決まったら、医者にかかるなら医者にかかるで、お取次ぎを頂いて、お願いをしよう、または、ままよという気持ちで、これはどうでも、おかげを頂かなければいけない、おかげを頂きたい、と、思うなら、ね、神様にお願いをしてお取次ぎを頂いが最後、神様に一心にお縋りしておかげを頂くという腹が決まったら、また改めてお願いをしようと、こうわたしが、こう言った。ね。
そして、この頃の善導寺の久保山陽子さんと、娘の米子さんのことを話した。あんなにひどい、それこそ口の中が二つに割れるごと、ひどかったっちゅうんですね、口を見ると。それこそ、一週間から、飲みも食いもできないほどしの、子供としてたいへんな重体であった。何日目かに、あんまり熱があるから、体温計を出して測ったところが、41度もあった。こりゃたいへんと思った時に、純ちゃんがひょろひょろやって来てから、割るはずでもないのに、取り落としたところが、それが、こなごなに割れてしもうた、と。
これは神様が、体温計なんかに頼っちゃならん、縋っちゃならん、こういうものは見ることもいらんと言よんなさるとと思うて、あのう、一心にお縋りしておかげを頂きたいと言うて、あの、なにが参って来た。
だから、もう、実を言うたらね、体温計を使うということが、すでにまちごうとるんだと。それを、例えば、陽子さんは気がついた。そこから、なるほど、一んち二日は、ほんとにやっぱ、医者にでも、ちょっとどうか言わなきゃおられないほどしに、ひどいことであったけれども、まあ、医者にかけるどころか、いよいよ熱心な信心させてもろうて、おかげを頂いたと、いうお話を、ただ今させて頂いたんですけれど、このへんはもう信心の機微ですよね。
おかげを頂く、おかげを頂くと言うよりも、お徳を頂く機微です。このところになるとね。そこで、なら今の恵美子さんのお届けを聞いて、皆さんがですたい、今朝の御理解を、今、先ほど、簡単に申しましたようにね、お気付けと、ね、お気付けをお気付けとも気がつかなか、つかんような時には、もう、いよいよ神様から遠のいておる時。お気付けと思うた時には、こちらの姿勢がね、本気で信心のけいこをしようといったような風に、神様の心に向けていない時に、お気付けを頂いた、ということが言えるんだ。
この頃、心が乱れておる、心が神様に打ち向かっていない。これはお気付けだと、そこからしゃんとした信心ができる。ね。しゃんとした信心というのは、心が神様に向かってです、ね、いつ例えばお試しがあっても、それに応えていけれるような、心の状態、というものが、できておる。
だから、どういうようなことがあっても、ね、これをお試しとして頂きゃあ、もうそれこそ、医者のいの字も言うこといらん、薬のくの字も言うことはいらん。神様、ただ今こういう、親先生、お取次ぎをお願いいたしますと、こういうお試しを受けております、と。この試験が見事に、日頃の信心にもの言わせて、ま、ね、百点満点とはいかんでもです、合格点がとれるようなおかげを頂きたいといったような願いがなされる。そこから、そういうような試験のある都度にです、信心は一段と飛躍することだろうと。
といったようなようなことをね、ええ、まあ、話したんですけども。ええ、まあ、今朝の御理解頂いておったから、そんなふうに、まあ、申しましたがね。どうでも一つ、うう、お互いの、おかげを頂くというか、お徳を受ける、という、その機微といったようなものをね、心得させて頂く。
今朝あたりの御理解を頂いておると、もう今日はいちんちそのことが心の中にあるんですね。もう、心が神様に向かっておるというのは、どういう些細なことからでも、はあ、お試しを受けよるといったような、頂き方ですから、もう、姿勢がそこに向いとるから、落第することがない。ね。
そういう、あたくしは、この、おかげを頂いていったら、有り難い。今まで、お気付けを頂いた、もうお気付けを頂いた時、頂いたと思う時には、すでに心が神様からずい分離れておる時と、まず悟らせてもらって、ね。些細なことであっても、ね、必ず神様のお試しを受けておると、いう気になると、落第せんですむ。医者のいの字もその時言うこといらんと思うんですよ。ね。と(?)心が、足が、合楽の方へ向かってくるに違いないんです。ね。
そこんところを、どう合格させてもらうか。ああ、今日はもうほんとに、落第ばっかりだったと、ということにもなってくる。そこにまた、明日は落第してはならないと、いう、ま、神様をほんとにこう、おお、身近に感ずるというか、神様、と、いや、本気で信心の稽古をしておるという、その信心態度というものが生活の上に、現されていくと思うんですよね。どうぞ。 (翠)